追悼式。フランスにとっての表現の自由

今日は10月21日水曜日。今日、パリの数ある大学の一校であり、世界最古の大学のひとつであるパンテオンソルボンヌ大学の講堂で、フランス政府主催の国家追悼式が開かれ、マクロン大統領が出席する。パンテオンソルボンヌ大学は公立の大学であって、公平で平等で自由な教育精神を標榜するフランスにとって聖地のような場所でもある。ここで追悼式が開かれるということはフランスの国家としての強いメッセージを示す。

 

事の発端は10月16日、パリ近郊のコンフラン=サントオノリーヌ(Conflans-Sainte-Honorine)にある中学校にて起こった凄惨なテロ事件である。中学校の地理学と歴史学の教師であったサミュエル・パティ(Samuel Paty)が表現の自由に関する授業で、ムハンマドの風刺画を取り扱ったために、彼は一人のテロリストによって白昼堂々首を切り落とされたのである。

 

この事件はフランス社会に大変な衝撃を二つ与えた。一つ目は、表現の自由が脅かされる事件が再び起こってしまったことに対する衝撃だ。フランス社会にとって、この事件は2015年に起こったシャルリーエブドのテロ事件を思い出すこととなった。二つ目は、公平で平等で自由な教育精神を何よりも標榜するフランスの教育の現場でこのような凄惨な事件が起こってしまったことだ。衝撃を象徴するのが、事件後のフランス政府の対応だ。10月16日の17時ごろに起こった事件の4時間後にはマクロン大統領を初め、ダルマナン内相、ブランケール教育相が現場に駆けつけたことである。そして、そこでマクロン大統領は感情的な演説をし、表現の自由を脅かすテロとは断固として戦うことを述べた。そして事件の2日後、フランス全土で新型コロナが再び猛威をふるいはじめてるにもかかわらず、集会を開き、数万人が参加したのだ。集会には、フランス政府を代表して、カステックス首相とブランケール教育相が参加したのだ。そして今日、国家追悼式が開かれる。

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(テロの現場を視察した際の大統領の演説。左がダルマナン内相、中央がマクロン大統領、右がブランケール教育相)

 

フランス人にとって、自由とは何よりも重要なことである。それは歴史上でも証明されてきたことでもある。18世紀初めからルソー、ヴォルテールモンテスキューなどの思想家が啓蒙思想を広げたのをはじめ、フランス革命という市民革命が起き、フランスの国家の標語としての自由、平等、博愛が唱えられるようになった。革命が発生した同じ年の1789年には、人間と市民の権利の権利の宣言、通称人権宣言が行われ、全ての人間は法の下の平等にあり、その権利は不可侵で神聖な権利であることを言明した。フランス革命以降、ナポレオンの帝政や王政復古などほぼ100年に及ぶ紆余曲折があったが、フランス人とフランスという国家の中でフランス革命で得た自由などは確立されていき、意識と共同体の中で絶対に離れられないものとなっていった。フランス人の血の中に、自由という血が流れていると言っても過言ではない。自由が脅かされるのはフランス人にとって、血を流すことと同じだ。自由を得るにも多くの血を流したからだ。それは表現の自由も例外ではない。その血も、また、200年以上に渡って熟成されたものであるが故に非常に濃いものとなっている。

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(自由なフランスを象徴する絵画、民衆を導く自由の女神

 

特に、こうした背景があるのか、フランスは風刺の文化が色濃くある。時には、人々や物事の評判を傷つけ、冒涜することがある。風刺は森羅万象が対象であって、宗教も例外ではない。特に、宗教の神様や預言者に関しては非常にデリケートな話題であり、風刺する際には世界中で厳格な信者たちに憤りなどを感じさせるのは否定できない。なぜならばそういった信者たちにとっては、自分の価値観や人生を真っ向から否定するようなものであるからだ。人間というのは、ある物事に熱心に取り組むことに対して、真っ向から否定されると、不快な気持ちや憤りを感じることは誰にでも当てはまることだ。日本人の私たちは、世界的にどちらかといえば宗教には熱心ではないと言えるため、あまり宗教の風刺画に関しては感じることが他の国々の人々に比べて少ないかもしれない。彼らにとって、宗教の風刺は、日本人にとって、原爆投下や東日本大震災天皇陛下などを冒涜すると同じだ。もちろん、こういった冒涜する風刺画に関しては意義を唱えるフランス人も(少ないが)居て、こういったことが起こると毎回賛否両論になっている。実際、単なる誹謗中傷と表現の自由と両立する必要性があり、この範囲を超えるとお互いにすれ違いが起こり、特にこのようなすれ違いを許せない過激な人々が行動をする可能性が出てくる。宗教に関すること限りではなく、個人の範囲でも言える。「死ね」とか言うことは果たして表現の自由なのだろうか。表現の自由の範囲内なら、なぜ有名人が最近自殺などしてまうのだろうか。個人の範囲では誹謗中傷、集合体や物事の場合は表現の自由とされているが、これはただ人という対象から物事に対象が移行しただけと言えるのではないだろうか。

 

そして、今回、テロ事件が発生した。教育という人間を育成する場所、価値観と自我を熟成させる場所でこのようなことが起こってしまった。これは人の観点によっては表現の自由と相手に対する冒涜の両立の可能性が脅かされていることを示した事件でもある。特にこのような事件は、すれ違いがなくならない限り、残念ながら今後も同じような事件が起きる可能性が高い。そして、もちろんテロといった卑劣な行為は到底許されるものではない。

 

この事件はフランスという自由と多様性を主張する多民族国家の団結を脅かす事件であって、人間社会に警鐘を鳴らしている事件でもあると言えるだろう。また、想像以上に背景が根深く、解決(テロがなくなること)にはまだほど遠いことを示した事件とも言えるだろう。